台湾のタオルメーカーの仕事をすることになったきっかけとこれまでの経緯と現在
2017年12月に、5年間の台湾駐在を終え、当時勤めていた会社の東京本社への帰任辞令と同時に退職し、妻の実家がある広島に移住しました。
2018年2月から、広島市内にある、商品を企画・製造する会社に転職し、入社時は生産管理部の部長職として、6名~8名の女性スタッフをマネジメント。
実務は全てみんなに任せ、部門内の編成だったり、意見を吸い上げては経営陣への提言をしていましたが、突然やってきた40歳過ぎのオヤジがいきなり上司になったことで、嫌な感じがあったでしょうけど、部門を離れる際に「仕事がやりやすくなった」と言ってくれたことは、お世辞だったとしても嬉しい気持ちになったのを覚えています。*^^*
年を重ねると、感動しやすくなるのです…T.T
2018年11月に、台湾駐在経験を活かすため、台湾駐在時代にプロ野球選手へのインタビューを手伝ってくれた黃さん(女性)に連絡し、台湾プロ野球全5球団と台湾プロ野球連盟のアポイントを調整してもらい台湾へ出張、台湾現地で黃さんに合流、同行してもらい各球団へ訪問しました。
各球団のご担当の皆さまが、快く歓迎してくださったのがとても印象的で、黃さんの人柄と応対の良さのたまものだな、と感謝の気持ちです^^
いまも全5球団、台湾プロ野球連盟の皆さまがLINEでもメールでも連絡をくださるのが嬉しく、これも黃さんあってこそ。黃さん、これからも、色々とお願いすると思うので、引き続きよろしくお願いします♪^^
順番は忘れましたが、台南市(統一ライオンズ)、台北市(中信ブラザーズ、台湾プロ野球連盟)、新北市新莊區(富邦ガーディアンズ)、桃園市(Lamigo(現・楽天)モンキーズ)の4都市を巡る大移動。
統一ライオンズに訪問した際、ノベルティで配布したタオルをいただいたのが、最初に手にした”台湾製マイクロファイバータオル”でした。
その後、全球団を巡る中で、各球団のオフィシャルグッズショップを見学させていただき商品を見て回ると、いただいたノベルティのタオルと同じ素材のタオルが全球団で通常商品として販売されていることに気づき、「日本では目にしない商品で、台湾では一般的に流通している商品」なのではないか?という思いのまま、帰国。
2019年に「カナヘイの小動物 ピスケ&うさぎ」のコラボレーションを、台湾プロ野球球団4球団と台湾プロ野球の商品で実現させ、この時にタオルメーカーに連絡を取り、初めての取引となりました。
2019年年末には、台湾製マイクロファイバータオルの本格取引を社内で検討し、タオルメーカーとの取引交渉を開始、そのまま私が選任窓口となり、ほぼ毎日のやりとりが始まります。2020年には「ワンピース」のコラボレーションを実現させました。
ほぼ毎日のやり取りの中で、取引先企業の一つの枠を超え仲良くしてもらい、タオルメーカーの社長さんから「日本市場に興味があって、開拓してみたい」との連絡を受け、「一緒にやりますか?」と呼応し、2020年12月で当時の企業を退職。
2021年1月から、台湾のタオルメーカーの日本事業担当責任者として、市場開拓がはじまります。
【2021年1月~4月の実績】
・連絡企業数:645社
・ご興味いただいた企業数:39社
・案件化:3件
上記の実績をができ、これから伸ばしていく中で、GW明けに「日本事業は、資金不足から4月末で事業を終了します」と、突然の連絡。
「ワオッ!!!!!唐突だな」と思いつつも、4か月という短い期間でも一緒に挑戦した仲間の想いを考えると、「よし!起業して続けるか!」という想いに至り、様々なつながりからご紹介いただいた皆様のサポートを受けつつ、この2か月~3か月の間に登記する方向で準備を進めております^^
2021年になって、5か月が過ぎようとしていますが、あまりにも衝撃的な出来事が起きたこともあり、多少の困惑もありますが、生活基盤を確保するための転職活動と同時に、仲間の挑戦を継続させるための起業、自分なりの新たな挑戦と思い、やれることをやっていこうと思っている今日この頃です^^
“台湾”と繋がってから、いまに至るまで。そして“台湾”への想い:その3
KUMAKUNでの生活は、2008年10月~2009年3月上旬の約5か月。
この5か月での出来事を詳細までお話すると相当、長くなるので、かいつまんでいきます。
KUMAKUNにご興味ある方は、↓↓↓こちら↓↓↓からどうぞ。
立地が良い場所なので、お勧めです^^
www.kumakun-sharehouse.com
入居し始めてすぐ、オーナーのNaokiさんからお誘いいただき、KUMAKUNの1階の玄関を出て右手に進み、中山北路の歩道に設置されていたコンクリートの椅子(現在は撤去されていると思います)で、台湾ビールを片手に夜な夜な多くのことを語り合いました。
Naokiさんより6つか7つか年上というのを良いことに、Naokiさんの相談に偉そうなことをあれこれ話していたような……仕事のこと、人生のこと、恋愛のこと、KUMAKUNで生活する仲間とのこと、あらゆることを話しました。
当時、30歳を過ぎたばかりの私は、10年の社会人経験を経て留学したこともあり、仕事観について話したり、その後の人生をどう過ごしていくのか、Naokiさんが台湾で生活を始める前のこと、当時のNaokiさんが考えていらっしゃることを伺いながら、多くの時間をこの場所で過ごしたように思います。楽しかった~^^
この5か月、本当に色々ありました。
30歳過ぎの男が、日本でもやったことのないナンパに人生初挑戦し、案の定、玉砕…T.T
MRT中山駅の南京西路沿いの北側、新光三越三号館だったと思いますが、1階にApple関連商品を扱うお店(今はほかのお店になっていると思います)があり、このお店の店員さんに声をかけ、カンペを準備し、片言も片言の中国語で食事に誘いましたが、「彼氏がいるからごめんなさい」と……まあ、それはそうでしょ!あれだけ可愛かったのだから。今はどうされているのでしょうか…
この玉砕の様子を、KUMAKUNで一緒に生活していたToshiくんとさつきさんがお店の外で大雨の中見ていて、見られていながらのナンパ、なかなかの緊張と恥かしさがありましたが、いま思うと、なかなか面白い風景^^
失敗から得られたことは、文化が違かろうと、言葉が不十分であろうと、やってみたらいいじゃん!ということ。当時は恥ずかしさがありましたが、今はネタにできるので、良い経験でした^^
私の人生初ナンパなんて、とても小さなことですが、まだまだ続く台湾留学生活、こんな程度のことでは終わりません。次回もご期待ください^^
つづく…
台湾プロ野球検定試験2021【初級編】
“台湾”と繋がってから、いまに至るまで。そして“台湾”への想い:その2
国際学舎で始まった台湾生活は、1か月で引っ越しの時を迎えます。
「たった1か月?」そう、たった1か月で色々なことがありました。
Emilyの親友の旦那さんが私をバッティングセンターに連れ出してくれたり、30kgオーバーのスーツケースを頑張って押して上がった急斜面急カーブ、台湾人女性が助けてくれたあの急斜面急カーブが、台風直撃で大崩落し通行止めになったり、はたまた別の台風直撃の日に“外出禁止令”が出たこともあって、国際学舎のロビーで昼間から飲んだくれることになり、近所のスーパー頂好Welcomeに買い出しにいき、日本人も外国人も入り乱れての大宴会(事件は起きませんでした^^)があったりと、刺激だらけの1か月。
国際学舎での生活は1か月と短かったですが、今でも、これからも大切な多くの友達と出会い、後に妻となる日本人女性にも出会い、国際学舎での1か月間がなければ、今の人生に繋がっていないことは間違いありません。
そうそう、国際学舎から師範大学までは、定時で巡回するバスでの通学でしたが、ある日、巡回バスに乗り遅れた私を、スクーターの後ろに乗せて、送ってくださった国際学舎のスタッフのおじさん、あの時はありがとうございました!
おじさんが送ってくださらなかったら、確実に遅刻していました。
あの時は、自信なさそうに「謝謝」と言いましたが、今であれば、もっと御礼を伝えられますし、一緒にお食事に行ったり、飲みに行ったりできるので、またいつか御礼をさせてください^^
語りきれない思い出が詰まった国際学舎を引っ越すことになったきっかけは、大手音楽会社を退職して2か月間という短い期間だけ私の元でアルバイトとして一緒にお仕事してくださった西山さんが先に台湾に留学されていたこともあり、お時間をいただき台北市内と台北近郊をガイドしてくださったときに…
「台北市内の賃貸物件かシェアハウスがいいよ」
というアドバイスもあり、早速WEB検索。
良いお部屋は沢山あるけれど、家賃が高く決めかねているときに、西山さんが
「KUMAKUNというシェアハウスがあるから問い合わせしてみたら」
とのお言葉で、早速、問い合わせ。
部屋の内覧日程を調整し、訪問。この時に出会ったのが、Naokiさん。
Naokiさんとは、この後、5か月間のシェアハウス生活を一緒に過ごすことになりますが、ここでも、なかなかの波乱万丈ぶり。
Toshiくん、さつきさん、かっちゃん、一緒に過ごすみんなとの濃厚な生活は、また次回に。
づづく…
“台湾”と繋がってから、いまに至るまで。そして“台湾”への想い:その1
10数年前に出会い、私の人生に多くの経験と実りをくれたEmilyは、複雑な想いもありますが、今でも変わらず特別な存在。
Emilyとの出会いをきっかけに、アラサーにして台湾留学を決意。
2008年から2009年にかけての半年間の留学生活、当時、中国語が全く話せない私は“ゼロスタート”で、留学を斡旋してくださった方のアドバイスもあり、割と優しく中国語を学べる台湾師範大学語学センターに留学することを決め、滞在先は、現在の新北市新店(現在は合併しており、当時の市区町村の名称を忘れました…)にある国際学舎。
国際学舎は山の上にあるため、決して交通の便が良いとは言えませんが、安価に滞在でき、日本人の方々も多く(恐らく全体の40%くらいは日本人)、“ゼロスタート”の私にとっては、とても助かる環境で、受付で日本人の方々をサポートされていた、日本人のMiwaさんに、とても助けられました。
台湾に到着した当時を簡単に振り返ると……
成田空港から桃園空港に到着し、持参していた地球の歩き方を片手に、桃園空港のバス乗り場から台北車站までバスで移動し、MRTに乗り換え、国際学舎の当時の最寄り駅「新店市公所」まで移動。しかし、ここからが甘かった…
土地勘がない私は、最寄駅から国際学舎まで、重量30kgオーバー(超過料金を支払いました…)のスーツケースを引いていけるものと思い、徒歩で移動を開始。留学を斡旋してくださった方からいただいた地図を見ながら、国際学舎がある山のふもとのファミリーマートに到着。山の上を見上げても先が見えないどころか、急斜面、急カーブの連続……スーツケースを引くことができず、押しながら国際学舎に向かって歩き出しました。
なかなか国際学舎には到着せず、見るからに重そうなスーツケースを押しながら急斜面急カーブを歩いて登るアジア人をどう思ったかはさておき、車を運転する女性が私のスーツケースをトランクに乗せて国際学舎まで運んでくださり、ヘトヘトだった私を救ってくださったのを今でも鮮明に覚えています。これが最初に触れた台湾の方々の優しさでした。
国際学舎に滞在することがしっかり伝わっていたこともあり、受付もスムーズに完了。そのまま部屋に通され、5階角部屋の個室。社会人一年目の六畳一間の生活を思わせる懐かしさとワクワク感が入り混じる感覚の中、いよいよ、台湾生活(初めての海外長期滞在)が始まります。
つづく…
突然、給与が「0円」になっても、”台湾”に馳せる思い
2021年1月から、前職で関わった取引先・台湾企業の日本事業を担当し、4か月が過ぎた頃の4月末、突然「日本事業に対する予算がないから、4月分の給与が最後です」とのアナウンス…あまりに突然すぎて、どうしたものかと思いましたが、少し考えてみることにしました。
私の人生で“台湾”というキーワードが登場したのが、恐らく2005年か2006年の冬。
当時、20代後半に差し掛かった頃で、我武者羅に仕事をしていました。
何の苦も無く週末にも出勤し、仕事が楽しかったのを覚えています。
ある週末、会議室で一人仕事をしていると、オフィス玄関の鍵が開く音がして、「誰か入ってきたな~」と思いつつ、聞こえる声に耳を澄ませると、社長の話す英語が聞こえ、直後に女性の英語も。
私が仕事する会議室にそのまま入ってきて、
社長「紹介するよ、今月から2か月間、インターンで入社するEmily、台湾の女性だよ」
Emily「My name is Emily, nice to meet you」
私「My name is Kazuhiko Oda, nice to meet you too, please call me Kazu」
恐らくこんな感じの挨拶が交わされたのかな、と。
(その後、Emilyとは沢山の時間を共有しましたが、ここでは割愛させていただき…)
Emilyとの出会いで、“台湾”を知り、当時Emilyが住んでいた、アメリカ・ロサンゼルスに行く機会ができ、Emilyの故郷の台湾・台北、宜蘭、花蓮、墾丁に行く機会も作ってくれ、英語を学び、北京語を学び、“台湾”の文化や歴史を肌で感じることができました。
後に、退職して台湾へ半年間の留学、帰国後3年を経て、出戻りした企業の台湾駐在となり、5年間の仕事の経験を積ませていただき、帰任命令と同時に退職し、妻の実家がある広島に移住し、転職。転職先でも、“台湾”に関連する業務を担当させていただけることになり、先月4月末まで務めた台湾企業と繋がります。
Emilyとの出会いで経験できた、異文化での生活と仕事。
文化の違いを思い知らされる出来事にぶつかりましたが、“台湾”との関わりのきっかけを振り返ってみて、恨み節の想いもありますが、それでも“台湾”との関わりを続けていきたい想いが強く、この10数年での自分にとっての“台湾”とは何だったのか、振り返ってみようと思います。
つづく…
メンターからのお言葉
私が一方的にメンターとしているかつての上司であり、私を見捨てずに育ててくださった方から、おそらく的確であろう私の評価をいただきました。
(※以下、一部編集、ほぼ原文)
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Odaがむかないと思う理由は「良い人」だからです。
起業ってマジで精神的苦痛が多い(というかほとんど)なんで、
Odaの「良い人な心臓」では苦しいと思うからです。
まあ、Odaも悪い心はもっていると思うけど、そことはちょっと別で、
本来、別れる人でない人と別れ、誰かに嫌われ、ほんとつらいんですよw
Odaの今までで、人間関係に苦労しているイメージあるから、
これで起業したらかなり人間不信になり、家族や友人も巻き込んでしまう可能性も想像します。
こちらは友人&先輩としての助言ですかね。
誰かをサポートする喜び、回りを幸せにするという小さな幸せ、
これらを持ち合わせたOdaが「野望」という名でけがれていくのはちょっと考えられないね。
(まわりに相当数の起業家がいるので、まあそういった推論です)
でも、全部を知らないかもしれないので、ここもあくまで「他人の助言」としてねw
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振り返ってみると、思い当たることも多くあり、嬉しい反面、複雑な気持ちになります。
嫌われる・疎遠になる勇気、相手にしてくれる人とだけ付き合う、ビジネスをする上では避けて通れないことなのでしょうか。
「良い人」が、仕事を通して「できる限り多くの人を幸せにする」という「野望」を持って、ビジネスにチャレンジするのも悪くないのかな、と少し悩んでみようと思います。