40歳を過ぎても“不惑”にならない、迷えるオヤジの日記

気を遣わず、忖度せず、批判せず、気ままに思ったこと、やったことややりたいこと、何でも綴ります^^

突然、給与が「0円」になっても、”台湾”に馳せる思い

2021年1月から、前職で関わった取引先・台湾企業の日本事業を担当し、4か月が過ぎた頃の4月末、突然「日本事業に対する予算がないから、4月分の給与が最後です」とのアナウンス…あまりに突然すぎて、どうしたものかと思いましたが、少し考えてみることにしました。

 

私の人生で“台湾”というキーワードが登場したのが、恐らく2005年か2006年の冬。

当時、20代後半に差し掛かった頃で、我武者羅に仕事をしていました。

何の苦も無く週末にも出勤し、仕事が楽しかったのを覚えています。

 

ある週末、会議室で一人仕事をしていると、オフィス玄関の鍵が開く音がして、「誰か入ってきたな~」と思いつつ、聞こえる声に耳を澄ませると、社長の話す英語が聞こえ、直後に女性の英語も。

 

私が仕事する会議室にそのまま入ってきて、

社長「紹介するよ、今月から2か月間、インターンで入社するEmily、台湾の女性だよ」

Emily「My name is Emily, nice to meet you」

私「My name is Kazuhiko Oda, nice to meet you too, please call me Kazu」

恐らくこんな感じの挨拶が交わされたのかな、と。

 

(その後、Emilyとは沢山の時間を共有しましたが、ここでは割愛させていただき…)

 

Emilyとの出会いで、“台湾”を知り、当時Emilyが住んでいた、アメリカ・ロサンゼルスに行く機会ができ、Emilyの故郷の台湾・台北、宜蘭、花蓮、墾丁に行く機会も作ってくれ、英語を学び、北京語を学び、“台湾”の文化や歴史を肌で感じることができました。

 

後に、退職して台湾へ半年間の留学、帰国後3年を経て、出戻りした企業の台湾駐在となり、5年間の仕事の経験を積ませていただき、帰任命令と同時に退職し、妻の実家がある広島に移住し、転職。転職先でも、“台湾”に関連する業務を担当させていただけることになり、先月4月末まで務めた台湾企業と繋がります。

 

Emilyとの出会いで経験できた、異文化での生活と仕事。

文化の違いを思い知らされる出来事にぶつかりましたが、“台湾”との関わりのきっかけを振り返ってみて、恨み節の想いもありますが、それでも“台湾”との関わりを続けていきたい想いが強く、この10数年での自分にとっての“台湾”とは何だったのか、振り返ってみようと思います。

 

つづく…